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さすらいの天才不良文学中年

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ケネディ暗殺の新映像 下山事件の怪

ケネディ暗殺の新映像

 おいらが広島の片田舎で中学生時代を送っていたころ、ケネディ大統領がダラスで暗殺された。


ケネディ


 調査委員会の結論は、「24歳の元海兵隊員、オズワルドの単独犯行」である。しかし、当時、中学生のおいらであっても、暗殺の真相がうやむやにされたことはよく分かった。それが、44年経った今でも解明されていないのには驚くばかりである。

 陰謀説は数多く出されてきたが、一番のポイントは、「犯人が単独か複数か」と「銃弾は何発か」である。

 調査委員会は、「オズワルド単独犯で、彼が3発銃弾を発砲した。1発目は外れ、2発目が頭部に命中(これが致死傷)、次の1発は背中から喉を貫通、これが同乗のテキサス州知事に命中」とした。

 この論拠は、しかし、検視によると、3発目の背中の貫通痕と衣服の穴とが一致していない。と、云うことは、他の狙撃者がいたはずだ(つまり複数犯)ということだ。

 ところが、ここに来て、ケネディ暗殺の新映像(狙撃直前の映像)が発見された。この映像によれば、狙撃直前のケネディ大統領の上着はずり上がっており、背中の貫通痕と衣服の穴とが一致しなくても問題がない、大発見というのである。

 この映像は、CNNでも放映していた(狙撃90秒前のカラー40秒間の映像)ので、おいらも見たが、なるほどそういうことですか。

 じつは、今回云いたいのは、そういうことではない。

 この映像を提供した人物のことだ。

 82歳のアマチュア写真家が、当日ケネディ大統領を通勤途上に撮影していたのである。暗殺直前の映像なので、資料的価値がないものと思い込み、自宅に40年以上も保管したままだったのだ。たまたま、娘婿と雑談中にその映像があることに気付き、公開されたものだという(後に現場の博物館に寄贈)。

 ケネディ暗殺の当日には、沿道に15万人がいたと云われる。そうすると、実はその中にもこれと同じように、他の場所からケネディ暗殺の瞬間を撮影していた人物がいたとしても不思議ではない。

 そう考えると、歴史ミステリーは再び甦ることになる。


 下山事件の怪(前編)

 昭和史最大の謎は、下山事件(昭和24年)と三億円事件(昭和43年)だと思う。両方とも迷宮入りの事件である。


三億円モンタ


 三億円事件は今の時価に換算して約20~30億円である。おいらが高校3年のときだったなぁ。大騒ぎになったことを昨日の様に覚えている。

 だが、残念なことに下山事件のときには生まれていないので、その時代の世相を肌で感じることは出来ない。

 しかし、戦後史を研究する上で、下山事件は一級の事件であると思うのである。

 何故か、今回はそれについて考えたい。

 この事件の争点は、今でも専ら自殺か他殺である(当時の警察は自殺と断定している)。

 これを推理したものとして、松本清張の「日本の暗黒」(当時の米軍が関与したという力作)ほか、多数の説が発表されている。

 この事件の真相ついては紙数がいくらあっても足りないので割愛したい。

 ただ、今では「矢板機関」によって自殺と見せかけられたという他殺説が有力になっている(森達也「下山事件 シモヤマ・ケース」平成16年、新潮社、柴田哲孝「下山事件 最後の証言」平成17年、祥伝社)。

 何が云いたいのか。

 実は、下山事件の資料を散策していて、今回一番驚いたことを述べる。

 それは、昭和24年、「日本に『九月革命』が起きると実(まこと)しやかに噂が流れていた」ということである(宮城音弥、二三子「下山総裁怪死事件」昭和38年、光文社)。

 え、え~!?

 日本に革命が起きると皆、考えてたの~!?

 聞いてないよ~!!(この項続く)。


 下山事件の怪(後編)

 昨日の続きである(下図は下山事件「死体散乱の状況」宮城音弥、二三子「下山総裁怪死事件」昭和38年、光文社)。


下山事件


 昭和24年、日本に「九月革命」が起きるという噂が流れていた話しである。

 おいらは70年安保の時代を経験しているのだが、あの騒乱の70年のときであっても、革命が日本に起きるなどとは誰も信じていなかったと断言する。

 しかし、昭和24年の夏は、九月革命が起きるということが本気で信じられていた時代だったということにショックを覚えたのである。

 確かに、下山事件を語るには、当時の社会情勢を抜きにしてはならない。

 下山事件、三鷹事件、松川事件の一連の国鉄三大事件の背景にはそういう世情があったと考えると、この下山事件を推理し易くなるのである(下山事件については、いずれ稿を改める予定)。

 日本に革命が起きるはずがないと今では誰もが思っているが、例えば、山本夏彦の「『社交界』たいがい」(平成14年、文春文庫)には次のような文章が出て来る。

「前田家の令嬢美意子にはさる宮家から婚約の申し出があったのに父は既に許嫁があるといつわってご辞退したという。

 なぜ当人に無断で断ったのと娘がなじるとお前はまだ十四だ、すでに五・一五、二・二六事件がおこっている。

 革命があったら華族で皇族と縁組したものは無事ではすむまい、だから拝辞したのだよ」

 これは戦前の話しだが、世の中のことは、その当時の世界情勢を知らなければ判断を誤ってしまうという事例である。

 昭和24年に九月革命があると(一部では)本当に信じられていたのである。おいらが生まれるわずか1年前のことである。

 そういうことなど知らない世代ばかりの世の中である(この項終り)。



明治20年(1887年)のお話し

 世の中に新しいものが出回ると、予期しないことが起こるものらしい。


風俗画報臨時増刊-明治聖世火災消防圖會の表紙.jpg


 明治20年(1887年)のお話しである。

 この年から東京で火災が発生すると、警官や消防隊は火事を眺めているだけで、消火活動をしなかったことがあるというのである。

 じぇ、じぇ~! 何じゃ、そりゃ~?

 その解答である。

 実は、この年から現在の損保ジャパンの前身である東京火災保険が設立され、東京で火災保険が発売されたのである。

 そして、ここからが摩訶不思議な話しである。

 火災保険を付けている契約者の自宅が火事になると、契約者は火災保険金ほしさのため、駆け付けた警察官には傍観するよう嘆願したというのである。

 あまつさえ、公設消防隊が到着すると消火活動まで拒否したのである。

 じぇ、じぇ~。

 中には身をもって火消を妨害したものもいるという(カッパブックス「歴史パズル」吉岡力229頁。昭和43年)。

 しかし、こんなことをされると一旦火事が発生すると全焼するだろうし、類焼して火災は拡大する。

 そこで、火災保険会社である東京火災保険は、明治26年(1893年)、30人の消防夫とポンプ車からなる施設消防隊を設置したのである。

 彼らはハッピ姿に鳶口(とびぐち)を持ち、保険のかかっている建物の近くに火災が発生すると直ちに出動したという。

 このとびぐち消防隊は、火災の延焼防止のほか、火災にあった住民を助けるなどの活動もし、東京市民に親しまれることになったのである。

 以後、この私的消防隊は16年間に渡り活躍した、というのだから歴史は面白い。

 いやぁ~、世の中はこれだから不思議なことだらけじゃのぅ。


ケネディの女癖(前篇)

 英雄は色を好む。


ケネディ1.jpg


 1963年11月に暗殺されたジョン・F・ケネディも例外ではなかったようだ。

 先週の片隅のニュースにケネディの恋文が約910万円で落札したという記事が掲載されていた。恋人とは、メアリー・ピンショー・マイヤー(写真下)のことで彼女の夫はCIAの高官であった。いわば部下の妻と不倫関係にあったことになる。


メアリー・ピンショー・マイヤー.jpg


 記事によれば、愛人とされる女性にケネディが「会いに来て」などと書いたラブレターが競売に掛けられ、約910万円で落札されたと米東部ボストンの競売会社「RRオークション」が発表した。

 それによると、手紙はケネディが暗殺される約1カ月前、マイヤーさんに宛てて書かれたもので実際には投函されておらず、秘書が保管していたという。

 ホワイトハウスの便箋4枚に「たまには私に会いに来てくれないか。愚かで筋の通らないことだとは分かっている」などと記されていた。

 同社は筆跡鑑定で本物だと確認し、ケネディが生前に書いた最後の直筆の手紙の一通だと記事は説明している。

 ついでながら、マイヤーさんはケネディ暗殺の翌年に殺害されており、その真相は謎のままである。ケネディのことを知り尽くしていた関係者は暗殺されたのだろうか。「ダラスの熱い日」によれば、ケネディ暗殺後3年間に関係者18人が変死したとされている。

 しかし、ここではそのことを論じるのではない。

 ケネディの女癖である。

 ウイキペディアによれば、ケネディは結婚前のみならず、結婚後、そして大統領就任後も複数の女性と不倫関係を持ち続けていたことが明らかにされている。


モンロー1.jpg


 その代表はマリリン・モンローであるが、その中には女優やマフィアの愛人など総勢8人の名前がオープンにされているのである(この項続く)。


ケネディの女癖(後篇)

 さて、ケネディの愛人である。


ケネディ2.jpg


 具体的には、次の8人の名前が挙げられている。

 まずは、上院議員時代の議員事務所の受付嬢だったパメラ・ターニャ(パメラは後にジャクリーンの秘書となった)

 次に、女優のアンジー・ディキンソン


アンジー・ディキンソン.jpg


 同じく女優のジーン・カーメン

 続いて、ホワイトハウスのワーキングガールで雑誌「ルック」でも紹介されたプリシア・ウイアとジル・カウエン

 前出のメアリー・ピンショー・マイヤー(デビット・ドブスを通じて学生時代からケネディと性的関係を持っていた)

 そして、最も有名な映画女優のマリリン・モンロー


モンロー2.jpg


 とどめは、ジュディス・キャンベル。彼女は、シカゴのマフィアのボス、サム・ジアンカーナの元愛人でもあり、シナトラの元恋人でもあった。

 以上、いやはや、やりたい放題である。ケネディは米大統領の中では珍しい敬虔なカトリックだから、不倫はしないと思っていたのだが、そうではないようだ。

 なお、カトリックとプロテスタントの不倫の差については、別途項を設ける予定である。

 ところで、ケネディはなぜマフィアのサム・ジアンカーナと関係があったのだろうか。

 実は、ケネディの父ジョセフは禁酒法時代にマフィアと手を組み、密造酒の生産、販売を行っていたという話しである。また、ケネディ自身も予備選挙中に愛人のジュディス・キャンベルを経由して、マフィアの大ボスのサム・ジアンカーナを紹介してもらっている。キャンベルはジアンカーナの元愛人でもあったため、ドロドロの関係である。

 ケネディがマフィアと関係を持った理由は簡単である。ニクソンとの選挙戦でのケネディ陣営への選挙協力と選挙への不正依頼である。

 ウイキペディアによれば、選挙終盤にケネディ陣営の大規模な不正に気づいたニクソン陣営は告発を行おうとしたが、アイゼンハワーから「告発を行い、泥仕合になると国家の名誉を汚すことになる」と説得されて告発を取りやめたというから、これらがもし事実なら民主主義の先進国が聞いてあきれる話しである。

 なお、ケネディとモンローの関係が終わった理由は、FBIのフーヴァー長官が司法長官を務める弟のロバート・ケネディに忠告したことによる。

 マフィアの取り締まりを強化しようとしていたケネディ政権に対してマフィア側がケネディとモンローの関係やキャンベルとの関係を司法取引に使おうとしていたためとされる。

 あわれ、モンローはケネディに棄てられ、その数か月後に変死するのである。ケネディもモンローの死後、3か月後に凶弾に倒れる。ケネディもモンローもアメリカを代表する人物であるが、その人生の幕引きは不幸なものとなった(この項終り)。



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